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タイトル
約1万2,000年前、現在のような日本列島が形成され、千島や北海道(蝦夷)の地にも縄文人が足跡を残すようになり、その後日本列島の北部はアイヌの人々の生活の場となっていました。17世紀になると大陸や日本(和人)の進出が始まり、少数先住民族であるアイヌの人々は数を減らし、18世紀頃から次第に日本とロシアの間で領土の問題が湧き起こってきました。20世紀の列強の衝突で樺太および千島の島々の間に国境線が引き直され、現在は樺太・千島列島・色丹島・歯舞群島の地は全てロシア連邦の統治下にあります。北方領土とは、現在日本政府がロシア政府に対して返還を求めている地域(択捉島、国後島、色丹島、歯舞群島)のことです。
千島列島
日本語 読み ロシア語
占守島 しゅむしゅとう о.Шумшу
阿頼度島 あらいどとう о. Атласова
幌筵島 ぱらむしるとう о. Парамушир
志林規島 しりんきとう о. Анциферов
磨勘留島 まかんるとう о. Маканруши
音禰古丹島 おねこたんとう о. Онекотан
春牟古丹島 はりむこたんとう о. Харимкотан
越渇磨島 えかるまとう о. Экарма
知林古丹島 ちりんこたんとう о. Чиринкотан
捨子古丹島 しゃすこたんとう о. Шиашкотан
牟知列岩 むしるれつがん о-ва Ловушкиy
雷公計島 らいこけとう о. Райкоке
松輪島 まつあとう о. Матуа
羅処和島 らすつあとう о. Расшуа
宇志知島 うししるとう o.Ушишир
計吐夷島 けといとう о. Кетой
新知島 しむしるとう о.Симушир
武魯頓島 ぶろとんとう о.Броутона
智理保以島 ちぇるぽいとう о.Чирпой
得撫島 うるっぷとう о.Уруп
択捉島 えとろふとう Итуруп
国後島 くなしりとう о.Кунашир
色丹島 しこたんとう о.Шикотан
歯舞群島 はぼまいぐんとう Острова Хабомай
樺太 からふと Сахалин(サハリン)

北方領土問題の歴史と経緯

17世紀以前の蝦夷地(北海道)は先住民族アイヌとの間に交易、小競り合い等はあったようですが、あまり知られることもなく未開の地でした。戦国時代には北海道南西部の渡島(おしま)半島辺りを豪族が支配していましたが、1604年に徳川家康によって豪族の流れをくむ松前氏に蝦夷地の支配、アイヌとの交易独占権が与えられ、以後松前藩に蝦夷地の管轄が任されるようになりました。しかし、最初の頃は渡島半島の南部を和人地、それ以外を蝦夷地と定め日本人(和人)が蝦夷地と通交することは制限されていました。千島海峡からカムチャッカ半島に連なる島々の存在が明確になり始めるのは17世紀にはいってからです。
   
日本とロシアと千島列島 年表
西暦 日本と千島列島の関係 ロシアと千島列島の関係
1615年~
1621年
松前藩が根室のアイヌ(メナシ)と交易を行っていたという記録があります。メナシは千島アイヌ(クリル人)との接触で鷲の羽やラッコの毛皮などを手に入れ松前藩と交易を行なっていたようです。  
1639年

松前藩の村上広儀(むらかみ ひろよし)が蝦夷地を探検。
江戸幕府はポルトガル船の来航を禁じ「鎖国」を開始。

 
1643年   この時代はスペインに代わりオランダが世界の海を制しようとしていた時代で、得撫島(ウルップ島)にもオランダの船が上陸。このときのフリース船長の航海日誌や地図によって、千島列島の所在が初めてヨーロッパにも知られることとなる。
1644年 鎖国を始めた幕府は、諸藩に地図の提出を求め、それに基づいて日本全土を収めた「正保御国絵図」を完成。
松前藩も蝦夷地の地図の提出を求められ、蝦夷地探検を行なった村上広儀がアイヌからの情報を基に、「クナシリ」「エトロホ」「ウルフ」などの島々の地名が含まれる地図を提出。不完全な地図ながら北方の島々の存在を確認している。
 
1669年 蝦夷地(北海道)のアイヌの間でも部族間の争いが続いていましたが、それを制したメナシクル(北海道東部)の首長シャクシャインは、アイヌ民族に対する不公正な交易、迫害に対して部族を集結し松前藩に戦いを挑みました。これはアイヌ民族最大の蜂起「シャクシャインの戦い」と言われています。しかし、松前藩の謀略によりシャクシャインは殺され、求心力を失ったアイヌは完全に松前藩の支配下に置かれるようになったのです。  
1711年~
1713年
  ロシア人が初めて千島列島に進出
1711年、アンツィフェーロフとコズィレフスキーが多くのコサック兵を引きつれ千島列島の占守(しゅむしゅ)島に上陸し、島の住民と戦ってこれを征服。翌年には、幌筵(ぱらむしる)島も征服。また、1713年には温祢古丹(おんねこたん)島等を襲撃し、これらの島々を調査して帰国。このとき千島などが記された「海島図」を作成したという記録があります。
1738年~
1742年
  ピョートル大帝の命により日本近海を調査したシュパンベルグ探検隊は、本州にまで到達しましたが、濃霧のため、千島列島の正確な調査をすることはできなかったようです。
1754年 松前藩、国後島に「場所」を開く。国後を拠点に択捉島、得撫(うるっぷ)島まで交易を行っていました。  
1766年~
1769年
  ロシア人イワン・チョールヌイ、ウルップ島・択捉島に到達し、周辺アイヌを制圧し毛皮税を徴収する。
1770年~
1772年
  ウルップ島アイヌの反乱で千島列島からロシア人撤退。
1774年 飛騨屋久兵衛、松前藩から蝦夷地の交易権を請け負う。  
1776年   再びロシア人、ウルップ島に上陸し、アイヌと和解する。
1781年 仙台藩の藩医で経世論家である工藤平助がロシアの事情をまとめた「赤蝦夷風説考」を刊行。  
1784年

幕府はロシアの南進に備えるため蝦夷地の調査を始める。

 
1785年 老中田沼意次が蝦夷地調査隊を派遣。  
1786年 蝦夷地調査隊に加わった最上徳内は、厚岸アイヌの首長イコトイを案内人として、国後島を経て択捉島に上陸。すでに択捉島に3人のロシア人が在住しており、現地人(アイヌ等)の中にはロシア正教を信仰する者がいる事を確認。  
1789年

「クナシリ・メナシの戦い」が起こる。
飛騨屋の横暴な支配に対しクナシリのアイヌが蜂起し、それに蝦夷東部のアイヌ(メナシ)が呼応し和人と衝突を起こす。それに対し松前藩が鎮圧に赴き蜂起の中心となった者を処刑。これによりアイヌの支配はますます熾烈なものとなってしまう。

 
1792年   エカテリーナ2世の命を受けたロシア使節アダム・ラクスマンが、カムチャツカに漂流した日本人、大黒屋光太夫ら3名を同行して根室に入港。ロシア皇帝の国書をもって通商を求めたが、鎖国などの理由で国書の受理は拒否され、長崎への寄港を求められる。この時、老中松平定信は長崎での国交樹立を約束したとされている。しかし、ラクスマンは箱館(函館)へ向かい日本人を引き渡しそのままロシアへ帰国してしまう。
1798年 幕府は本格的な蝦夷地調査隊を派遣。幕臣の近藤重蔵を筆頭に最上徳内を案内人としてエトロフ島に到達し「大日本恵登呂府」の標柱を立て日本領有の地であることを示す。  
1799年~
1800年

近藤重蔵は再び国後島、択捉島に渡り郷村制を敷き、同行した高田屋嘉兵衛に国後島と択捉島間の航路を開拓させた。蝦夷地における交易権を得た高田屋嘉兵衛は択捉島に17か所の漁場を開き択捉の活性化に尽力する。
また、幕府は外国人の侵入を防ぐために択捉島以南の島々に番所を設ける。

 
1801年 幕吏、富山元十郎はウルップ島に渡り「天長地久大日本属島」の標柱を立てる。  
1804年   日本との通商を求めて、ロシア皇帝アレキサンドル1世の使節レザノフが長崎に来航。しかしラクスマンが訪れた時の老中松平定信は失脚しており通商交渉は拒否され失敗に終わる。
1806年   通商を拒否されたレザノフはアラスカ、カムチャッカへと向かったが、部下のフヴォストフは独断で樺太の松前藩番所を襲撃する。(フヴォストフ事件)
1807年 対露緊張切迫に伴い、江戸幕府は樺太・国後・択捉を含む、全ての蝦夷地を直轄地とし、蝦夷地全体が幕府の直接の支配下となる。 ロシア海軍大尉フヴォストフは択捉島の日本拠点を襲撃する。(フヴォストフ事件)
1808年~
1809年
松田伝十郎・間宮林蔵、樺太を探検。樺太が島であることを確認。 1808年、長崎ではイギリス軍艦侵入事件「フェートン号事件」が起きている。
1811年   ロシア軍艦ディアナ号の艦長ゴローニン少佐らが樺太西海岸を探査し、さらに千島列島を測量して国後島に上陸した際、南部藩の守備兵に捕らえられ、松前に護送抑留される。
1812年   ディアナ号副艦長のリコルドは報復として、国後島付近を航行中の日本船を襲い、廻船商人の高田屋嘉兵衛を拿捕する。 高田屋嘉兵衛の尽力で翌年和議が成立し、ゴローニンと高田屋嘉兵衛の交換釈放がなされる。
この事件をきっかけとして、両国は国境を決めるための合議を始めようとするが、結局話し合いは成立せず、1817年以降しばらくロシアの日本への接触は影を潜めてしまう。
1853年   アメリカのペリー来航に遅れること1ヵ月半、ロシアの海軍中将プチャーチンが通商を求めて長崎に来航。この時は幕府の拒否で交渉不成立。
1855年 日露和親条約(下田条約)を締結
ロシアのプチャーチン提督の粘り強い交渉で締結に成功。
千島に於いては択捉島と得撫島(ウルップ島)の間を国境線とし、樺太に於いては日露混住の地と定められる。
1858年 日露修好通商条約締結
1869年
明治政府はこれまでの蝦夷地を北海道と改称し、11の国に分割。そのうち国後島、択捉島を千島国(ちしまのくに)とし、そこに国後・択捉・振別・紗那・蕊取の5郡を置く。  
1875年 「樺太・千島交換条約(サンクトペテルブルグ条約)」を締結。
日露混住の地であった樺太で紛争が絶えなかったため、千島列島を日本領、樺太をロシア領とする。
1904年~
1905年
日露戦争勃発。朝鮮半島や満州の権益を巡りロシアと戦争状態になる。1年7ヵ月の戦いの末、日本は辛くも勝利を収める。
ポーツマス条約において、満州や朝鮮半島での優越権と共に樺太の北緯50度以南、南樺太が日本に割譲された。
1914年~
1942年
1914年-ドイツに宣戦布告
1931年-満州事変
1937年-日中戦争始まる
1941年-真珠湾攻撃。太平洋戦争始まる。
1914年~1918年-第一次世界大戦
1919年-パリ講和会議(ベルサイユ)
1939年-第二次世界大戦勃発
1941年-独ソ戦開戦
1943年   モスクワ会談:米・英・ソ三国外相会談(10/19~10/30)
[米国はソ連に対して、南樺太と千島列島をソ連に与える見返りに、対日参戦することを求めた。]
カイロ宣言:米・英・中三国首脳会談(11/22~11/27)
[日本国の侵略を制止し、日本の無条件降伏を求めることを宣言。第一次世界大戦以後に日本が奪取した太平洋諸島の領土を剥奪。台湾・満州の中国への返還、日本が暴力・貪欲により略取した地域からの駆逐が定められている。南樺太や千島列島については触れられていない。
テヘラン会談(11/28~12/1)
[米・英・ソ首脳会談。ドイツに対する作戦及びフランス上陸、さらに戦後処理問題が話し合われる。
1945年2月   ヤルタ会談:米・英・ソ首脳が会談
[主にポーランド問題が話し合われる]
(ヤルタ協定)[ドイツ降伏の2ないし3か月後にソ連が対日参戦する見返りとして、日本の敗北後、南樺太をソ連に返還し、千島列島をソ連に引き渡すべきとした。]
1945年
4月5日
  ソ連のモロトフ外相は、佐藤駐ソ大使に対し、1941年4月25日に日ソ両国で批准した「日ソ中立条約」の不延長を通告。 条約は締結より5年間有効で1946年4月25日まで有効。
1945年

8月6日広島に原爆。
8月9日長崎に原爆。
8月14日、御前会議にてポツダム宣言受諾を決定、連合国にポツダム宣言受諾を通告。
8月15日正午、天皇による終戦詔書のラジオ放送(玉音放送)が行われ、国民に終戦が伝えられる。

9月2日、日本、降伏文書に調印。

7月26日、ポツダム会議での合議に基づき勧告の宣言をする。(ポツダム宣言)
8月8日深夜、ソ連、ヤルタ協定の密約通り対日宣戦布告。しかし、領事館の電話が不通で東京の政府には伝わらず。
8月9日午前零時、ソ連軍「日ソ中立条約」を無視し、攻撃開始。
8月11日、ソ連軍、国境を侵犯し南樺太に侵攻。
8月25日、ソ連軍、南樺太を占領。
8月28日~9月1日、ソ連軍、択捉・国後・色丹島を占領。
9月3日~5日、ソ連軍、歯舞群島を占領。
1946年 1月29日、GHQ指令第677号により、沖縄・小笠原・竹島・南樺太・千島列島・歯舞・色丹などの地域に対する日本の行政権が中止された。
2月2日、ソ連は南樺太・千島列島を自国領に編入
1949年 7月までに樺太・千島列島・色丹島・歯舞群島のほぼ全員の日本人が帰国。  
1951年 サンフランシスコ講和条約(正式名:日本国との平和条約)が9月8日に署名され、翌年4月28日に発効される。これにより日本と連合国との戦争状態は正式に終結し、日本の独立が認められる。
この条約に「千島列島並びに日本国が1905年9月5日のポーツマス条約の結果として主権を獲得した樺太の一部及びこれに近接する諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する」とある。
また、アメリカ主導で行なわれたこの条約にソ連は署名しなかったため、ソ連との平和条約締結は抉れてしまうことになる。
サンフランシスコ講和条約締結の1時間後に、日本とアメリカの間で日米安全保障条約が締結される。
1956年 日ソ共同宣言(昭和31年条約第20号)で日ソ間の外交関係が回復。
この宣言でソ連との平和条約締結後に歯舞・色丹両島を引き渡すという合意がなされた。
当時、既に米ソは冷戦状態にあり、アメリカは日本に対して歯舞・色丹だけではなく択捉・国後を含んだ4島返還を示唆したとされている。
結局、4島返還を望む日本とソ連との間には平和条約は締結されず、日ソ間に課題を残したままの共同宣言となる。
この時から「国後島・択捉島・歯舞群島・色丹島」のことを「北方領土」を呼ぶようになる。
1960年 岸内閣の日米安全保障条約改定に対してソ連が反発。ソ連は、平和条約締結後の歯舞・色丹両島の引き渡しに対して、日本から外国軍隊(米軍)の撤退条件を付け加えることを主張。これに対して日本政府は、日ソ共同宣言調印時には既に日米安保があったとして反論、後にソ連の主張は取り下げられた。
1963年 貝殻島周辺水域における昆布採取協定(民間協定)締結。
1964年 北方領土への墓参開始。(9月8日~11日) ソ連政府は北方領土への墓参に関する我が国の要請に対して原則として応ずる用意がある旨通報。(5月13日)
1967年 第1回日ソ外相間定期協議。三木外相、訪ソ。
1968年 アメリカ占領からの小笠原諸島返還(6月26日)  
1972年 第2回日ソ外相間定期協議。グロムイコ外相訪日。(1月23日)
アメリカ占領からの沖縄返還(5月15日)
第1回平和条約交渉。大平外相、訪ソし、グロムイコ外相・コスイギン首相と会談。(10月21日~24日)
1973年 第3回日ソ外相間定期協議・第2回平和条約交渉。
田中総理・大平外相、訪ソし、ブレジネフ書記長・コスイギン首相・グロムイコ外相等と会談。
1975年 第3回平和条約交渉。宮澤外相、訪ソ。
1976年 第4回日ソ外相間定期協議・第4回平和条約交渉。グロムイコ外相、訪日。(1月9日~13日)
ソ連外務省が北方領土墓参に旅券と査証の携帯を要求したため、日本側はそれに異議を唱え墓参が中断(1985年まで墓参は中断)(9月3日)。
1977年 日ソ漁業暫定協定に署名。
1978年 第5回日ソ外相間定期協議。園田外相、訪ソ。
1979年 外務省、国後島・択捉島におけるソ連の軍事的措置に関し厳重に抗議。(2月5日)
第1回日ソ事務レベル協議(東京)(5月14日~15日)
防衛庁、色丹島におけるソ連軍が増強されたものと推定される旨発表。外務省ソ連側に厳重に抗議。(10月2日)
ソ連大使、抗議について「日ソ間に領土問願は存在せず、また、ソ連領内の行動に注文をつけるのは内政干渉」と反論。(10月16日)
1981年 第1回「北方領土の日」(2月7日)
2月7日は、1855年日露和親条約(下田条約)が調印された日である。
 
1986年 第6回日ソ外相間定期協議・第5回平和条約交渉。シェヴァルナッゼ外相、来日。(1月15日~19日)
第7回日ソ外相間定期協議・第6回平和条約交渉。安倍外相、訪ソ。(5月29日~31日)
北方領土墓参を再開。(8月21日~24日)
ソ連墓参団が訪日。(長崎、松山、泉大津)(12月21日~28日)
1988年
第8回日ソ外相間定期協議・第7回平和条約交渉。シェヴァルナッゼ外相、訪日。
平和条約締結のための作業グループの設置に合意。
1989年 第2回平和条約作業グル-プ(東京)(3月21日)
第3回平和条約作業グループ(モスクワ) (4月29日)
第9回日ソ外相間定期協議・第8回平和条約交渉。宇野外相、訪ソ。(5月3日)
「我が国国民の北方領土入域問題について」を閣議了解。(9月19日)
第4回平和条約作業グループ(東京) (12月18日~19日)
1990年 第5回平和条約作業グループ(モスクワ)(8月1日)
北方領土墓参を実施。(初めて択捉島で実施) (8月24日~9月2日)
第10回日ソ外相間定期協議・第9回平和条約交渉。 シェヴァルナッゼ外相、訪日。(9月4日~7日)
第6回平和条約作業グループ(東京) (11月15日)
1991年 第11回日ソ外相間定期協議・第10回平和条約交渉。中山外相、訪ソ。(1月22日~23日)
第7回平和条約作業グループ(モスクワ)(2月18日)
第12回日ソ外相間定期協議・第11回平和条約交渉。ベススメルトヌィフ外相、訪日。(3月29日~30日)
ゴルバチョフ大統領、訪日し、海部総理と会談。「日ソ共同声明」に署名。(東京) (4月16日~19日)
第8回平和条約作業グループ(東京) (6月27日)
第13回日ソ外相間定期協議・第12回平和条約交渉。中山外相、訪ソ。(10月12日~17日)
「我が国国民の北方領土への訪問について」を閣議了解。「ビザなし交流」)が設定される。(10月29日)
ソビエト連邦が消滅して、ロシア連邦となる。(12月25日)
1992年 第1回日露平和条約作業部会(モスクワ)(2月10日~11日)
第1回日露外相間定期協議。コズィレフ外相、訪日。(3月19日~22日)
北方領土との相互交流を初めて実施。四島側から日本への第1次訪問団。 (4月22日~27日)
第2回日露外相間定期協議。渡辺外相、訪露。(5月2日~6日)
北方領土との相互交流を初めて実施。日本側第1次訪問団、国後島、択捉島及び色丹島訪問。(5月11日~17日)
第2回日露平和条約作業部会(東京)(7月15日~16日)
第3回日露外相間定期協議。渡辺外相、訪露。(8月29日~9月4日)
第1回日露事務レベル協議(モスクワ)(12月16日)
1993年 第2回日露事務レベル協議(東京)
エリツィン大統領、訪日し、細川総理と会談。「東京宣言」に署名。(東京)(12月12日~13日)
1994年 第3回日露平和条約作業部会・第3回日露事務レベル協議(モスクワ)(2月21日~22日)
第4回日露外相間定期協議羽田外相、訪露。(3月19日~21日)
第4回日露平和条約作業部会・第4回日露事務レベル協議(東京)(12月4日)
1995年 第5回日露外相間定期協議。コズィレフ外相、来日。(3月2日~4日)
第5回日露平和条約作業部会・第5回日露事務レベル協議(モスクワ)(9月8日)
1996年 第6回日露外相間定期脇議。池田外相、訪露。(3月19日~20日)
第6回日露平和条約作業部会・第6回日露事務レベル協議(東京)(10月2日~3日)
第7回日露外相間定期協議プリマコフ外相、来日。(11月14日~17日)
1997年
第7回日露平和条約作業部会・第7回日露事務レベル協議(モスクワ)(3月28日~29日)
第8回日露外相間定期協議。池田外相、訪露。(5月22日~24日)
橋本総理、訪露し、エリツィン大統領と会談。「東京宣言に基づき、2000年までに平和条約を締結するよう全力を尽くす」ことで合意。(クラスノヤルスク合意)(11月1日~2日)
第9回日露外相間定期協議。プリマコフ外相、来日。(11月13日)
1998年 平和条約交渉のための次官級協議及び第8回事務レベル協議(モスクワ)(1月22日)
日露平和条約締結問題日露合同委員会共同議長間会合及び第10回日露外相間定期協議。小渕外相、訪露。(2月22日)
エリツィン大統領、訪日し、橋本総理と会談。「平和条約が東京宣言第2項に基づき四島の帰属の問題を解決することを内容とし、21世紀に向けての日露の友好協力に関する原則等を盛り込む」ことで合意。(川奈合意)(4月18日~19日)
平和条約締結問題日露合同委員会共同議長間会合及び第11回日露外相間定期協議。高村外相、訪露。(10月16日~17日)
小渕総理、エリツィン大統領と会談。「モスクワ宣言」に署名。(モスクワ)(11月11日~13日)
1999年 平和条約締結問題日露合同委員会共同議長間会合及び第12回日露外相間定期協議。イワノフ外相、訪日。(2月20日~23日)
平和条約締結問題日露合同委員会共同議長間会合及び第13回日露外相間定期協議。高村外相、訪露。(5月28日~30日)
フリステンコ第一副首相、訪日。自由訪問の枠組み設定に関する口上書を高村外相と交換。(9月2日)
「モスクワ宣言」に基づいて自由訪問を初めて実施(9月11日~12日) 。以後毎年行なわれる。
2000年 平和条約締結問題日露合同委員会共同議長間会合及び第14回日露外相間定期協議。イワノフ外相、訪日。(2月10日~13日)
プーチン大統領、訪日し、森総理と会談。「平和条約問題に関する日本国総理大臣及びロシア連邦大統領の声明」に署名。(東京)(9月3日~5日)
平和条約締結問題日露合同委員会共同議長間会合及び第15回日露外相間定期協議。河野外相、訪露。(11月1日~4日)
北方領土返還要求運動関係者特別集会。(各県民会議、元島民等の代表者を根室市に一堂に集め、今後の運動の在り方について討議するとともに、「返還要求運動を引き続き粘り強く、国民運動として展開する」との宣言を採択。)(11月27日)
2001年 第16回日露外相間定期協議。河野外相、訪露。(1月16日)
2002年
平和条約締結問題日露合同委員会共同議長間会合及び第17回日露外相間定期協議。イワノフ外相、訪日。(2月1日~3日)
衆・予算委において、鈴木宗男衆議院議員による「友好の家」の建設等の北方四島支援事業に対する関与が指摘。(2月13日)
外務省は、支援委員会を廃止する方針を表明。(4月26日)
第18回日露外相間定期協議。川口外相、訪露。(10月11日~14日)
第19回日露外相間定期協議。イワノフ外相、訪日。(12月17日~19日)
2003年
小泉総理、訪露し、プーチン大統領と会談。「日露行動計画」署名。(モスクワ)(1月10日)
超党派「北方領土返還・四島交流促進議員連盟」が設立。(3月25日)
2004年 第20回日露外相間定期協議。川口外相、訪露。(6月23日~25日)
2005年 第21回日露外相間定期協議。町村外相、訪露。(1月13日~15日)
第22回日露外相間定期協議。ラヴロフ外相、訪日。(5月30日~31日)
北方領土返還要求運動60年国民集会 in NEMUROを開催。(9月25日)
小泉総理、プーチン大統領と会談(東京)。日露行動計画に基づく協力の更なる強化のため12本の実務文書を作成。(11月20日~22日)
2006年
ベトナム・ハノイでのAPEC首脳会合の際に安倍総理とプーチン大統領が会談。これまでに達成された諸合意及び諸文書に基づき双方に受入れ可能な解決策を見出すため、政治レベル、事務レベルで更に精力的に交渉していくことで一致。
2007年 ドイツ・ハイリゲンダムサミットの際に安倍総理とプーチン大統領が会談。(6月9日)
日露外相電話会談。高村外務大臣とラヴロフ・ロシア外務大臣の電話会談。(10月3日)
日露首脳電話会談。福田総理大臣とプーチン大統領が「領土、平和条約」の問題推進について話し合う。(10月19日)
日露外相会談。高村外務大臣と訪日中のラヴロフ・ロシア連邦外務大臣との会談。(10月23日)
2008年 福田総理大臣とメドヴェージェフ・ロシア次期大統領との電話会談。(3月11日)
福田総理が非公式に訪露し、モスクワにおいてプーチン大統領と会談。(4月)
メドヴェージェフ氏がロシア連邦第3代大統領に就任する。(5月7日)
北海道洞爺湖サミットの際に福田総理とメドヴェージェフ大統領が会談。(7月)
ペルー・リマでのAPEC首脳会議の際に麻生総理とメドヴェージェフ大統領が会談。(11月)
2009年 麻生総理がサハリンを訪問し、メドヴェージェフ大統領と会談。(2月)
ロシア外務省は、日本から北方四島への人道支援物資の受け入れを中止することを決定したとの声明を出した。(8月7日)
鳩山総理大臣とメドヴェージェフ・ロシア大統領、ニューヨークでの国連総会で会談(9月)
2010年 鳩山総理とメドヴェージェフ・ロシア大統領との会談(4月)
カナダでのムスコカG8サミットの際に菅総理とメドヴェージェフ大統領が会談(6月)
ロシア国防省は7月初旬に北方四島の択捉島で大規模な軍事演習を実施したと発表。またロシア議会は第二次大戦の対日戦勝利の9月2日を公式記念日に格上げし、北方領土問題に対して譲歩しない姿勢を示した。
ロシアのメドヴェージェフ大統領が日本の中止要請を無視して国後島を訪問。前原外相は駐日ロシア大使に「厳重抗議」をする。(11月1日)
横浜でのAPEC首脳会談の際に菅総理とメドヴェージェフ大統領が会談(11月)
2011年仏ドーヴィルでのG8首脳会合の際に、菅総理とメドヴェージェフ・ロシア大統領が会談(5月)
米ホノルルでのAPECの際に、野田総理とメドヴェージェフ・ロシア大統領が会談(11月)
2012年 3月に行われた大統領選挙で約63%の得票を得てプーチン氏が当選。
プーチン氏は柔道用語の“引き分け”という言葉を使い北方領土問題の解決を示唆する。
野田総理はG20首脳会合に出席するために訪問中のメキシコのロス・カボスにおいてプーチン・ロシア大統領と会談(6月)
野田総理はAPEC首脳会談出席のため訪問中の露・ウラジオストクでプーチン・ロシア大統領と会談(9月)
2013年安倍晋三首相の特使としてロシアのモスクワを訪問中の森喜朗元首相がプーチン大統領と会談(2月21日)
ロシアを公式訪問中の安倍晋三首相はモスクワのクレムリンでプーチン大統領と会談(4月29日)
日本の主張 ロシアの主張
北方領土は太平洋戦争以前に於いてロシア領であったことは一度もなく日本固有の領土である。 もともとアイヌなどの少数民族が居住していた地域を日本、ロシア双方が制圧、進出したもので、“固有の領土”という表現は当てはまらないし、国際政治の上では“固有の領土”という観念は無い。また、一度も他国の領土になった事の無い土地が他国に編入されるのは歴史的にはそう珍しい事ではない。
1855年の日露和親条約で択捉島以南が日本領となっている。  
1875年の樺太・千島交換条約で、得撫島以北を千島列島としている。従って千島列島とは得撫島以北のことを指す。 明治初年に導入された旧国制度では国後までが千島国とされた。
ヤルタ協定は連合国の秘密会談であり、日本にとってその取り決めは無関係。 ヤルタ会談で、ソ連の参戦や戦後の千島列島・南樺太割譲は米英両国に対し承諾されている。
日ソ中立条約は1946年4月まで有効であり、ソ連が日ソ中立条約を一方的に破棄し、北方領土を含む千島列島・南樺太などへの侵攻は重大な条約違反。 当時ソ連は連合国側であり、ソ連の日本侵攻に対して警戒していた事実があり、日ソ中立条約破棄を一方的なものと断定することは難しい。
進撃開始は日ソ中立条約の破棄を日本国駐ソ大使に宣言した後で、条約破棄の伝達が遅れたのは、日本政府の探知が遅れただけに過ぎない。
1945年、北方領土警備の任務を受けていた中川中将、岩田中尉と交わした四島の暫定的移譲の合意密約「国後密約」の効力を認めている。(1960年にロシア側で判明したが、日本はその存在を認めていない。)
東京裁判確定判決は日ソ中立条約を「誠意なく、またソビエト連邦に対する日本の侵略的な企図を進める手段として結ばれたもの」と認めている。
日本のポツダム宣言受諾後、ソ連が一方的に侵攻継続した事態は日本領土への新たなる侵略である。  
日本はサンフランシスコ講和条約に調印し千島列島・南樺太を放棄したが、日本が放棄した千島列島に北方領土は含まれていない。千島に属するというソ連の意見があったにせよ、ソ連自身この条約に調印していない。
また 、サンフランシスコ平和条約の起草国である米国は、北方四島は常に固有の日本領土の一部であり、かつ、正当に日本の主権下にあるものとして公式見解で日本の立場を一貫して支持している。
サンフランシスコ講和条約において日本は千島列島を放棄しており、その範囲においては、条約批准前後の衆議院外務委員会に於ける島津久大政務局長の発言、衆院特別委員会に於ける西村熊雄条約局長と草葉隆圓外務政務次官の発言で、それぞれ「南千島は千島に含まれている」と答弁している。(但し、西村・草葉は歯舞・色丹に関しては千島列島ではないと答弁した)
当時の日本国の辞書では択捉島と国後島を南千島として表記している。

日本政府はロシアの北方領土占拠は不法だとして、一貫して4島返還を要求しています。一方、北方領土はロシアが60年以上も実効支配を続け、現在約17,000人ほどのロシア人が生活しているのも現実です。これは昭和20年当時、この地域に暮らしていた日本人の数とほぼ同じです。ロシアは「クリル発展計画」として、この地域においてもインフラの整備などを行い、自国の領土であることをさらにアピールしようとさえしています。おそらく北方領土問題は、過去の出来事云々を語るだけでは解決できない問題でしょう。日本にとってロシアとの平和条約締結は北方領土抜きにしては語れない問題になっています。日本人の立場としてはこの問題を忘れることなく、ロシアへの理解を深め、グローバルな観点から北方領土返還の機会を探っていかなくてはならないでしょう。

13/04/30------------------------------Copyright(C)1999-2008 日本の島へ行こう All rights reserved.