沖縄県の島尖閣諸島
魚釣島飛瀬
北小島南小島
沖の北岩沖の南岩
久場島大正島
尖閣諸島(せんかくしょとう) 魚釣島
尖閣諸島(せんかくしょとう)
冊封使と海底油田
住所/沖縄県石垣市字登野城2390番地~2394番地
面積・周囲・標高/
魚釣島[3.82k㎡・10㎞・362m]、北小島[0.31k㎡・3.1㎞・125m]、
南小島[0.40k㎡・2.6㎞・139m]、久場島[0.91k㎡・3.5㎞・117m]、
大正島[0.06k㎡・1㎞・75m]
人口/無人島群
アクセス/漁船などで近づくことはできるが、海上保安庁に退去勧告を受ける
概要
尖閣諸島は、魚釣島、北小島、南小島、久場島、大正島の5島と、沖ノ北岩、沖ノ南岩、飛瀬の3岩礁からなる島嶼群。一番大きな魚釣島を基準にすると、石垣島の北北西約170km、台湾の北端から東北東へ約180km。中国の福州から東へ約370km、沖縄本島南端から西へ約410kmの位置にある。
尖閣諸島は古くから中国や琉球に知られており、1534年に明の冊封使・陳侃(チン・カン)によって書かれた報告書には「釣魚嶼を過ぎ、黄毛嶼を過ぎ、赤嶼を過ぐ。・・・」という記述が見られ、琉球航路の目印になっていたことが分かりる。ここでの冊封使(さくほうし、さっぽうし)というのは、中国の皇帝が琉球王の即位を認めるために派遣した使者のことで、1404年から1866年にかけて20回以上送られている。陳侃が書き記した「釣魚嶼」、「黄毛嶼」、「赤嶼」とは日本での「魚釣島」、「久場島」、「大正島」のこと。
尖閣諸島は絶海に浮かぶ小島群であるため、長い間人の手が加えられることはなかったが、19世紀の終わりに日本人の手によって開拓が始められた。
古賀辰四郎は安政3(1856)年、福岡県八女(やめ)のお茶農家に生まれ、23歳の頃お茶の販売をするために寄留商人として沖縄へ渡った。その時羽毛の材料となるアホウドリがたくさん生息する島のことを耳にする。沖縄の人達が「ユークンクバシマ」と呼ぶこの島は後に日本人が「尖閣諸島」と呼ぶ島々のことで、古賀は明治17年に実地調査のために尖閣へと向っている。そして翌18年に明治政府に「借用願(開拓許可)」を申請するも諸島の帰属がはっきりしないということで願いは却下された。
尖閣諸島民
結局、開拓許可がおりたのは、日本が日清戦争に於いて勝利した翌年の明治29(1896)年のことで、この頃から古賀辰四郎による尖閣諸島の本格的な開拓が始められた(※古賀の開拓開始時期は諸説あり)。魚釣島を中心にカツオ節製造工場や羽毛の加工場、グアノ(肥料の素となるリン)の加工場が作られ、最盛期の明治42年には99戸248人もの人が暮らしていたといわれている。
古賀辰四郎は大正7(1918)年に亡くなり、事業は家族によって引き継がれるが、メインで行っていた鰹節製造の採算がとれなくなり、昭和15(1940)年に工場は閉鎖され、その後尖閣から人影は無くなった。
そして再び尖閣諸島に注目が集まるのは1968年のこと。この年に行われた海底調査で尖閣諸島周辺の海底に石油資源の存在が指摘されると、中国、台湾はこぞって尖閣諸島の領有権を主張するようになり、以後、日本、中国、台湾がこの小さな島々を挟んで睨み合いを続けることになった。

関連リンク

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尖閣諸島関連年表
1372年 明の太祖・洪武帝が琉球の浦添中山王・察度に入貢を求め、察度はこれに応えて朝貢を果たす。
1404年 琉球の武寧は明の永楽帝から冊封を受け中山王となる。最初の冊封。
1534年 冊封使・陳侃(チン・カン)が『使琉球録』を著す。この中に「釣魚嶼」、「黄毛嶼」、「赤嶼」の文字が見られることから、既に中国で尖閣諸島の存在が知られてたことが分かる。
1686年 冊封使・汪楫(オウ・シュウ)が『使琉球雑録』を著す。この中の「中外ノ界ナリ」という表現が、赤尾嶼と久米島の間を国境とし、尖閣諸島を中国領だとする根拠にされた。
1786年 日本の経世論家・林子平(はやし しへい)が『三国通覧図説』を著す。これに付属している地図には尖閣諸島が台湾と同じ色で彩色されているため、日本が尖閣諸島を中国領だと認めていたという根拠にされている。
1885年 福岡県出身の寄留商人・古賀辰四郎が尖閣諸島の借用願(開拓許可)を沖縄県に申請したが政府に却下される。
10月-11月 沖縄県は尖閣諸島へ調査団を派遣し、どこの国にも属さない無人島であることを確認し、明治政府に沖縄県所轄の標札建設を上申するが、国際情勢を考慮したとして政府はこれを却下。
1890年1月13日 沖縄県知事・丸岡莞爾が国標を建てる事を国に要請。
1893年11月2日 沖縄県知事・奈良原繁が国標を建てる事を国に要請。
1894年7月 日清戦争が勃発。
1895年1月14日 日本政府は尖閣諸島の沖縄県編入を閣議で決定、正式に日本領とし、沖縄県知事に魚釣島と久場島に沖縄県所轄の標杭を建てるよう要請する。
4月17日 日清講和条約(下関条約)が締結され終戦。清が台湾と澎湖諸島を日本に割譲。
6月10日 古賀辰四郎が尖閣諸島の「官有地拝借願」を政府に提出。
1896年 明治政府は古賀辰四郎への30年の無償貸与を許可。
1918年 古賀辰四郎他界。事業は息子・古賀善次氏に引き継がれる。
1920年 尖閣諸島沖で遭難した中国(当時、中華民国)福建省の漁船を救助したことで、中華民国駐長崎領事・馮冕から石垣村長および古賀善次氏ら4名に感謝状が贈られる。その感謝状には「日本帝國沖縄懸八重山郡尖閣列島内和洋島」と明記され、当時の中国が尖閣諸島を日本領だと認めていたことが窺われる。和洋島とは魚釣島のこと。
1932年 魚釣島、久場島、南小島、北小島の4島が古賀善次氏に対し有償で払い下げられる。
1940年 尖閣諸島で中心に行われていた鰹節製造の採算がとれなくなり工場を閉鎖。尖閣諸島は無人島になる。
12月8日 太平洋戦争に突入。
1945年8月15日 日本、ポツダム宣言を受諾して終戦を迎える。
1951年9月8日 「日本国との平和条約(サンフランシスコ講和条約)」調印。
1952年4月28日 「日本国との平和条約(サンフランシスコ講和条約)」が発効され、第3条により南西諸島や小笠原諸島が米国の信託統治下に置かれる。そして尖閣諸島も南西諸島の一部として米軍が大正島および久場島を射撃場として使用。
  日華平和条約調印。
1953年1月8日 中国共産党機関紙『人民日報』の資料欄に、「琉球群島人民のアメリカによる占領に反対する闘争」と題した記事を掲載。この中で日本名で尖閣諸島と明記し、琉球群島の一部だと紹介する。
1958年11月 北京の地図出版社が出した『世界地図集』には日本名で「尖閣諸島」と表記され、日本領とされている。
1965年10月 中華民国国防研究院が出版した『世界地図集第1冊東亜諸国』には日本名で「尖閣諸島」という表記がされ、日本領とされている。
1968年10月6日 台湾の日刊紙『聯合報』が、「琉球尖閣諸島 我国の漁船操業禁止(琉球尖閣群島 禁我漁船作業)」と題した記事を掲載。
10月12日-11月29日 日本、中華民国、大韓民国の海洋専門家が国連アジア極東経済委員会(ECAFE)の協力の下に東シナ海一帯の海底を学術調査。
1969年5月 東シナ海の大陸棚に石油資源が埋蔵されている可能性があるという報告書が公刊される。
  琉球政府が石垣市に命じて尖閣諸島に標杭を設置。
  中華民国は尖閣諸島の周辺海域の石油採掘権をアメリカ合衆国のガルフ社に与え、「青天白日旗」を尖閣諸島に掲揚し、世界中の通信社に配信。
1970年1月 中華民国の国定教科書「国民中学地理科教科書第4冊」において尖閣諸島は日本領として扱われ、「尖閣群島」という日本名で表記されている。
9月 琉球政府は警察本部の救難艇を尖閣諸島に派遣、魚釣島に掲揚されていた青天白日旗を撤去。
1971年6月11日 中華民国(台湾)が外交部声明という形で尖閣諸島の領有権を主張。
1971年12月30日 中華人民共和国が外交部声明という形で尖閣諸島の領有権を主張。
1972年5月15日 沖縄返還に伴い尖閣諸島の施政権が日本に戻る。
9月29日 日中共同声明により日中国交正常化。日本と中華人民共和国とが国交を結び、中華民国に断交を通告。
1978年4月 約100隻の中国漁船が尖閣諸島に接近し、領海内不法操業を行う。
5月11日 日本の右翼団体「大日本赤誠会」のメンバーが海上保安庁の制止を振り切り強行上陸、魚釣島に日の丸を掲揚。
8月12日 日本の右翼政治団体「日本青年社」が魚釣島に灯台を建設。
10月23日 日中平和友好条約調印。当時の中国副首相・鄧小平は会見で、尖閣諸島の領有問題について“棚上げ、先送り”の意向を表明。
1979年5月17日 海上保安庁は、魚釣島に仮設ヘリポートを設置。このヘリポートは中国の抗議により後に撤去。
1988年 日本青年社が魚釣島に新灯台を建設。 航路標識法に基づく正式な灯台として認可するよう海上保安庁に申請書を提出し、受理される。
1990年8月 「台湾地区スポーツ大会」の聖火リレーを行っていた台湾船2隻が尖閣諸島の領有権を主張するために魚釣島周囲の領海を侵犯。
1992年2月25日 中華人民共和国領海法制定。釣魚列島(尖閣諸島)が自国領であると記載。
1996年 日本青年社が再び灯台を建設し、日本政府に海図への記載を求めるが、政府は航路標識法に基づく正式な灯台と認定せず、記載はされなかった。
7月 国連海洋法条約発効。日本政府は排他的経済水域(EEZ)を設定。
9月 香港から出港した抗議船が領海内に侵入し活動家数名が海に飛び込み、1人(陳毓祥)が溺死する。
10月 台湾・香港の活動家等が乗船する小型船41隻が領海内に侵入。 4人が魚釣島岩礁に上陸。
1997年5月6日 新進党(当時)衆議院議員西村眞悟氏が国会議員で初めて上陸・視察。
  30隻の台湾抗議船等が尖閣諸島に接近し、そのうち3隻の抗議船が警告を無視して領海内に侵入。
7月 1隻の台湾抗議船が尖閣諸島の領海内に侵入。 日本の海上保安庁により領海外へ退去させられる。
1998年6月 香港および台湾の抗議船6隻が尖閣諸島領海付近に接近。うち香港の抗議船「釣魚台号」とゴムボートが領海内に侵入。その後、領海外に退去させられた釣魚台号は、遭難信号を発信し、乗員は付近の台湾抗議船および日本の海上保安庁の巡視船に救助された。釣魚台号には人為的原因によると思われる浸水が発生、海上保安官が応急的な漏水防止措置などを施したが付近の海域で沈没。
2001年5月 「日本人の会(建国義勇軍)」という右翼団体が魚釣島に強行上陸。
2002年9月16日 台湾前総統・李登輝が尖閣諸島は「台湾にも中国にも属さない(不屬於台灣、也不屬於中國)。尖閣諸島は日本の領土(釣魚台是日本的領土)」と発言。
2003年12月26日 廈門市で開催された全世界華人保釣フォーラムにて「中国民間保釣連合会」結成を決定。
2004年1月 台湾当局が魚釣島を土地登記。
3月24日 中国人7名が海上保安庁の警備の隙を突いて魚釣島に上陸。沖縄県警察本部は全員を出入国管理法違反の疑いで現行犯逮捕。
  アメリカ国務省副報道官・エレリが「尖閣諸島に日米安保条約が適用される」との見解を表明。
3月26日 出入国管理法違反で逮捕されていた7名の中国人を強制退去処分にする。
3月30日 例年行われていた対中円借款の交換公文署名式を中国外務次官・王毅が当日になって突然欠席。 中国人活動家の逮捕に対する抗議と捉えられる。
3月30日 衆議院安全保障委員会は、尖閣諸島への中国人の不法上陸事件を受けて、政府に警戒・警備で万全の対策を求める「我が国の領土保全に関する件」と題する決議を全会一致で可決。
2005年2月9日 日本青年社が魚釣島に建設した灯台を、所有権放棄に伴い日本政府が国有化、海上保安庁が保守・管理すると発表。
2007年10月28日 中国の「保釣行動委員会」の抗議船が領海内に侵入、海上保安庁の警告で引き返す。
2008年6月10日 台湾の遊漁船「聯合号」に海上保安庁の巡視船「こしき」が衝突し、聯合号が沈没する事故が発生。数日後に台湾の巡視船など4隻が尖閣諸島沖領海内に侵入、駐日代表を召還させる措置をとった。劉兆玄行政院長も立法院の答弁で、「最終手段としての軍艦派遣も排除できない」との見解を示す。結局、日本側が海保巡視船の過失を認め謝罪し、3000万円相当の賠償で和解が成立。
9月24日 沖縄に訪問中の李登輝元台湾総統が「尖閣諸島は日本の領土」と発言。
11月9日 台湾で尖閣諸島の領有権を主張する団体「中華保釣協会」が設立。
12月8日 中国国家海洋局所属の海洋調査船2隻が尖閣諸島付近の領海内に侵入。中国側は海洋調査活動を強化と中国の主権を主張することを明示する。
12月9日 中華民国(台湾)の呉伯雄国民党主席が尖閣諸島付近の共同資源開発を改めて提案。中国の海洋調査活動について「問題を複雑化する」と牽制。
12月19日 12月8日の尖閣諸島沖の日本領海に中国の海洋調査船が侵入した問題で沖縄県議会が「尖閣諸島は沖縄・石垣市に属する、我が国固有の領土である」として中国政府に抗議する決議を全会一致で採択。
2009年2月1日 海上保安庁が尖閣諸島周辺の監視態勢強化のため、PHL型巡視船を常駐化。中国はこれに抗議。
4月3日 石垣市の大浜長照市長が地方税の調査を行う目的のために尖閣諸島への上陸を求める書簡を中曽根弘文外務大臣あてに申請。同月8日、政府は上陸を認めない方針を示す。
2010年9月7日 尖閣諸島付近の領海内で不法操業を行っていた中国漁船を海上保安庁の巡視船が発見し、停船を勧告。しかし、中国漁船は巡視船に衝突を繰り返し、逃走しようとしたため漁船の船長を公務執行妨害で逮捕。
9月25日 那覇地検は公務執行妨害の疑いで逮捕した中国人船長を処分保留のまま釈放。政治介入が疑われたが民主党はこれを否定。
  中国政府は中国人船長逮捕に関して日本に謝罪と賠償を要求。菅直人首相は「尖閣諸島はわが国固有の領土で、領土問題は存在しない」として謝罪、賠償を拒否。
2012年4月16日石原慎太郎東京都知事はワシントンでの講演で、東京都が沖縄県・尖閣諸島を購入するために地権者(さいたま市在住、栗原國起氏)と交渉し、基本合意に達したと述べた。
2012年7月17日 野田首相が尖閣諸島の国有化方針を打ち出す。
2012年9月11日日本政府は、沖縄県の尖閣諸島のうち魚釣島、北小島、南小島の3島を20億5000万円で購入することを決定。11日午前、地権者側と契約書を取り交わし、上記3島を国有地とする。
尖閣諸島領有権問題wikipedia参照