長崎県の島高島(たかしま)
高島
高島図
高島(たかしま)
三菱発祥の島
住所/長崎県長崎市高島町
面積/1.19km2周囲/6.4km標高/111.5m
人口/324人(R2)・382人(H27)・498人(H22)・722人(H17)・900人(H12)・781人(H7)国勢調査
アクセス/[長崎汽船
長崎港(高島行き)→伊王島(19分)→高島(15分)
香焼(こうやぎ)港から海上タクシー船[海上タクシー美津丸]
概要
長崎県には“高島”という名前の島が5つ、さらには“鷹島”と表記する島も2つある。この高島は長崎半島の中程にある蚊焼町(かやきまち)の西方海上約5kmに浮かぶ有人島。お隣の端島(軍艦島)を含む高島町は、かつては炭鉱で賑わいを見せ、日本一の人口密度を誇った町だった。しかし、炭鉱の衰退と閉山で人口が激減し、2005年1月に長崎市へ編入されるまで日本一小さな町、そして人口の少ない町として知られることになる。
高島に関する記録では、1588年に鍋島氏の所領となり、1623年に佐賀藩主・鍋島勝茂の命によって高島神社が建立された。1642年に遠見番所が設けられ、1695年に島内から石炭が発見されている。そして、1751年には16人のキリシタンが迫害を逃れ、樫山から移り住んで集落を作った。それ以前では壇ノ浦(1185年)で敗れた平家の落武者が辿り着き住み着いたと言われている。
もともと高島は今の半分位の面積しかなく、その南側に上二子島、下二子島と二つの小島が並んでいたが、石炭の採掘で発生する捨石(ボタ)で周囲が埋め立てられ地続きとなり、一つの島になった。
日本では江戸時代の後半になって世間に石炭の存在が知られるようになった。最初は薪の代わりとして使われるくらいだったが、製塩時の燃料として使用されるようになると需要は次第に高まり、幕末から明治にかけて黒船や諸外国の影響で蒸気機関の燃料だと分かると、各藩はこぞって石炭採掘に力を注ぐようになった。
高島では明治2年にイギリスの貿易商トーマス・グラバーが佐賀藩と共同で近代的な洋式竪坑を造り、本格的な石炭採掘が始められた。後に経営は後藤象二郎の手を経て岩崎弥太郎へと引き継がれ、高島は石炭の島として発展を続けた。
岩崎弥太郎は海運業で大きな成功を収め、“東洋の海上王”とまで言われた人物で、三菱財閥の創始者として知られている。高島での石炭事業はその発展の礎とも言えるもので、この島が“三菱発祥の地”と言われる由縁だ。
石炭の最盛期は昭和30~40年代の始め頃で、昭和43年には高島の人口が18,019人を数えたという記録がある。しかし、時代は石炭から石油へと移り変わり、石炭産業は斜陽を迎え、高島炭鉱も昭和61年に閉山になった。
見どころ
現在の高島は石炭の採掘が最盛期だったころのアパート群もほとんど取り壊され、海水浴場や釣り公園に、そして軍艦島が見える島としてたくさんの観光客が訪れた。
飛島磯釣り公園…高島港から北へ徒歩で約8分、高島と飛島を結ぶ堤防にあり、親子連れで賑わう。webページ
海水温浴施設「いやしの湯」…温泉はもちろん、海水を利用したタラソテラピーもできる施設。ちなみに、タラソテラピーとはギリシャ語のタラッソ「thalasso(海)」とフランス語のセラピー「therapie(治療)」の複合語で、日本語では「海洋療法」と訳される。[長崎旅ネット
北渓井坑跡
北渓井坑(ほっけいせいこう)跡・南洋井坑跡…日本最初の蒸気機関による洋式竪坑で、日本の近代石炭産業の原点だと言われている。現在の北渓井坑は井戸のような四角い穴が町指定の文化財として保存され、南洋井坑はレンガ積みの排気口跡が当時を偲ばせている。
人工海水浴場…透き通る水が綺麗です。平成13年には「日本の水浴場88選」に選ばれた。
権現山(別名ゴリラ山)展望台…南西約2.5kmに端島(軍艦島)や中ノ島、そしてその先にある野母崎などが望める。
石炭資料館・グラバー別邸跡・後藤象二郎邸跡・高島教会等々。

関連リンク

長崎市長崎市観光・宿泊ガイド あっ!とながさき

岩崎・グラバー
トーマス・ブレーク・グラバー(Thomas Blake Glover)
(1838年6月6日~1911年12月13日)
スコットランド生まれで、21歳の時に来日。2年後に「グラバー商会」を設立し貿易商を営む。明治元年から高島炭鉱の開発に着手し、翌年から本格的石炭採掘に携わる。幕末から明治にかけて、日本の近代化に貢献した人物として知られており、長崎市南山手町のグラバー園は観光名所として有名。南山手の自宅と高島の別邸との間に引かれた電話線が我が国初めての私設電話線だといわれている。
岩崎弥太郎
岩崎弥太郎(1835年1月9日~1885年2月7日)
土佐(現在の高知県安芸市)出身の実業家で三菱財閥の創業者。地下浪人の家に生まれ貧困の中で育つも幼少の頃から才能に恵まれ、野心も高かった。かねてから商才を発揮していたが、明治6年(1873年)に三菱商会を設立し海運業を始める。海運業は時流にも乗り発展を見せ、明治14年に高島炭鉱を譲り受けたことで三菱の基盤はさらに強固なものとなっていく。
後藤象二郎
後藤象二郎
(1838年4月13日~1897年8月4日)
土佐藩出身の武士、政治家。将軍・徳川 慶喜の大政奉還に寄与し、維新後は政治家として活躍。明治7年(1874年)に政府から高島炭鉱の払い下げを受けるが放漫経営で破綻し、岩崎弥太郎に売却。

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