福岡県の島=筑前諸島勝島
勝島
勝島地図
勝島(かつしま)[筑前諸島]
かつては城もあった"かちま”
住所/福岡県宗像(むなかた)市神湊
面積/0.2km2周囲/2.1km標高/98.0m人口/無人島アクセス/神湊(こうのみなと)港あたりから船
概要
神湊港がある草崎半島の突端から北へ300m程離れた海上にあるのが勝島。筑前大島へ向う時にすぐに左手に見えてくる。
現在の神湊周辺は玄界灘を望むホテルや結婚式場、ゴルフ場等があり、季節には海岸でマリンスポーツを楽しむ若者で賑わう、ちょっとしたリゾート地といった感じだが、昭和35年頃までは勝島にも漁業を営む民家が数件あり、近海を漁船が行き交う漁村の風景が広がっていた。
勝島にいつ頃から人が住み始めたのかはよく分からないが、17世紀の初めに神湊から勝島へ6戸が移住したという記録がある。しかし、古代大和政権が成立する以前からこの海域を支配していた宗像氏が神湊から大島や沖ノ島へ向けて船を漕ぎ出していたとすれば、勝島にも何かの形で人が移り住んだことがあったのではないかと想像できる。実際、時代は下って永禄3年(1560年)、大友氏の勢力から逃れて大島へと退いていた宗像氏は、復権を図って重臣占部尚安に勝島に草崎城の支城を築かせたとある。
以後、豊臣秀吉に社領を没収されるなどして宗像氏は消滅したが、江戸時代になると神湊自体は漁港として発展を見せ、勝島にも定住が始まった。江戸中期には波止が築かれ、幕末から大正にかけて20戸ほどの漁民の定住があった。
そして、昭和に入り太平洋戦争を経て次第に定住者は数を減らし、戦後の復興から発展の時代を向えた昭和36年に無人島になった。
現在は、かつてあった牧神社も昭和52年に神湊の津加計志神社へ合祀され、生活を営んだ家々の石垣、船が係留されていた波止の跡、山の頂には江戸時代に築かれた遠見番所跡が当時の面影を僅かに残すだけだ。
北西に大島、北東に地島を望み、玄界灘へ突き出た感じの勝島の周辺は、遊漁船が揺れる長閑な風景を見せているが、毎年10月1日に行われる大島の大祭「みあれ祭り」の時には勝島の周辺を数百隻の漁船が群を成してパレードを行う。この時ばかりは地元の人に“かちま”と呼ばれる勝島も勝ち誇って鬨の声を上げているかのようだ。

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18/07/04---Copyright(C)日本の島へ行こう All rights reserved.