●弁天島(べんてんじま)[柿崎弁天島]
★吉田松陰の志(こころざし)
●住所/静岡県下田市柿崎
●面積/0.07km2
●周囲/0.3km
●標高/3.9m?
●人口/無人島
●アクセス/
伊豆急下田駅[須崎行バス]→柿崎神社前(5分)
概要
★日本全国にたくさんある弁天島の中で、黒船と幕末の思想家・吉田松陰ゆかりの地として知られているのが下田の柿崎弁天島。
★ペリーの浦賀来航(1853年)を目の当たりにした吉田松陰は、西洋文明の先進性と日本の未熟さを痛感し海外渡航を企てる。翌年4月、弟子の金子重之輔と共に下田湾に停泊中のアメリカ艦船への侵入を計画し、柿崎の弁天島から闇夜にまぎれて小舟を漕ぎ出す。天候は不順で波が高く、やっとの思いで旗艦ポーハタンに乗り移った二人は、必死に渡米の意思を訴えるもペリーは乗船を認めず直ぐに送り返されてしまう。
★計画は未遂に終わったが、密航の企てがいずれは発覚することを悟り、松陰自ら奉行所に申し出て投獄された。この時、松陰も金子も23歳。まさに血気盛んな青年の暴挙ともとれる行動だったが、日本の存亡を真剣に考える情熱と勇気ある姿に胸を打たれる。
★現在の弁天島は西側が埋め立てられ下田弁天島公園として整備されているが、幕末の頃は鷺島神社と龍神宮の二つの祠があるだけの小さな岩島だった。松陰達が身を隠した鷺島神社のお堂には「ささげ弁天」と書かれた神棚があり、この島を弁天島と呼ぶ理由はここにある。
★「ささげ弁天」の“ささげ”の意味するところはわからないが、天正年間(1573~1592年)の創建で、境内の説明文には“この龍神は下田城主によって祭られた守護神”とある。
★鷺島とは恐らく「さき(先・崎)島」と呼ばれていたものが転じて鷺島となり、そこに祀られた弁天様は、江戸時代後期の神仏分離の風潮で新たに社が造られ、鷺島神社と改められたものではないだろうか。
★今では完全に陸続きになっているため“島”とは呼び難くなっているが、松陰が身を隠したとされるお堂や岩場の洞穴は当時の雰囲気を伝えている。この場所から下田湾を航行する遊覧船“黒船サスケハナ号”を眺めれば、少しは吉田松陰の志を感じることができるかもしれない。