福岡県の島=筑前諸島玄界島机島・柱島
玄海島
玄海島
玄海島(げんかいじま)[筑前諸島]
島の向こうは玄界灘
住所/福岡県福岡市西区大字玄界島
面積/1.15km2周囲/4.6km標高/217.9m
人口/353人(R2)・458人(H27)・527人(H22)・343人(H17)・708人(H12)・779人(H7)国勢調査アクセス/【高速船】博多埠頭(ベイサイドプレイス)→玄界島漁港(35分)
概要
玄界島は福岡湾の出入口に浮かぶ離島で、東南東4.5kmに志賀島、南西2.5kmには糸島半島の蒙古山が望める。標高218mの遠見山を中心に斜面が海岸線まで続き、平地は少なく南側の斜面に住宅が張り付くように軒を並べている。
主産業は豊かな資源を有する玄界灘での漁業。タイやブリなどの一本釣りが盛んだが、同時に刺網漁や近海でのサザエやウニ漁も行われている。玄界灘は対馬暖流が流れ込む海域で、その流れがたくさんの恵みを運んでくる。定期船には地元の人達に混じって釣竿を持った太公望の姿を見かける。
定住の始まりは不明だが、永禄年間(1558~1570年)には島民が頻繁に海賊に襲われるようになったので72戸全島民が対岸の宮浦へ避難したとの記録がある。その後40年ほど無人の状態が続き、再び人が住み始めたのは慶長年間(1596~1615年)になってからで、その頃の石高帳には久島(ひさしま)村と記されている。後に月海島(げっかいじま)、元禄5年(1692年)の元禄国絵図には玄界島(村)と記されている。
玄界灘は古代より日本と大陸の関係において重要な海域だった。7~9世紀には遣隋使や遣唐使の航路になり、鎌倉時代には元寇が襲来。1905年(明治38年)には日露戦争の日本海海戦の舞台になった。
平成17年(2005年)3月20日午前10時53分、福岡市の北西約30kmの玄界灘沖を震源とするM7震度6の地震が発生。大半の建物が倒壊するなどの被害を受け、代表者10名を除いた全島民が本土へ避難した。
それから懸命に復旧が行われ、地震から3年を経た2008年5月4日には、新しく整備された公園で「復興完了感謝祭」が行われ記念碑が建てられた。住宅があった斜面の補強も終り、県営住宅も完成。希望者全員の帰島も叶い、小中学校も再開している。
港の近くにある小鷹神社は百合若大臣(Wikipedia)にまつわる神社。周遊道路を巡って、南西にある無人島の大机島、小机島。北側にある面白い形の柱島などを見ることができる。
震災以前は「えびす屋旅館」と「富士の屋旅館」があったが、復興後の再開は不明。
机島(つくえじま)[筑前諸島]
洞窟に釈迦の像
住所/福岡県福岡市西区
面積/大机島=0.02km2、小机島=0.002km2周囲/大机島=0.96km、小机島=0.6km標高/大机島=30m、小机島=21m人口/無人島アクセス/唐泊港等からチャーター船
概要
玄界島の南西約2km、音無瀬戸に浮かぶ無人島。大机島と小机島が並ぶ。形がテーブルのような台形をしているところから名前が付いた。大机島の北側に洞窟がありその壁に釈迦牟尼像が彫られていたという話もあり、古くは釈迦牟尼島と呼ばれていたこともある。
共に玄武岩が波によって侵食された洞窟があり、小机島のものは「針の耳」と呼ばれている。洞窟はコウモリの棲家。
机島の周辺はサザエやウニの魚場。
柱島(はしらじま)[筑前諸島]
ドクロの頭
住所/福岡県福岡市西区
面積/0.003km2周囲/0.073km標高/66m人口/無人島アクセス/唐泊港等からチャーター船
概要
玄界島の北西約700mに浮かぶ無人島。玄武岩の柱状節理が発達しているので、見た目から名前が付いた。高さが60mある巨岩で、ドクロが頭を海面に出しているかのような形をしていて不気味。
柱島やその東にある黒瀬あたりは磯釣りポイントで、糸島半島の東側にある唐泊港から瀬渡しが出ている。

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