山口県の島周防大島諸島沖家室島
沖家室島
沖家室島
沖家室島(おきかむろじま)周防大島諸島
家室千軒と過疎高齢化
住所/山口県大島郡周防大島町大字沖家室島
面積/0.95km2周囲/5.0km標高/163.8m
人口/96人(R2)・137人(H27)・146(H22)・170人前後?(H17)・202人(H12)・262人(H7)国勢調査
アクセス/[バス]JR大畠駅→大島大橋→沖家室島(約1時間)
概要
本浦漁港
周防大島(屋代島)の佐連(され)地区の南約400mに位置する。沖家室大橋(380m)が架橋されている。全体的に山がちで平地はほとんど無く、北部に州崎、中部に本浦(ほんうら)の2つの集落がある。
かつては大島郡東和町という地名で、日本一高齢化が進む町として有名になったことがある。昭和50年頃の高齢化率(65歳以上の人口の割合)の全国平均が10%ほどだったころ東和町は20%を超えていた。とくに老人世帯が多い地域として紹介されたのが沖家室島だった。2010年の国勢調査では全国の高齢化率が23%という超高齢化社会となったが、お年寄りが元気な島として沖家室島は健在なようだ。
本浦の山には室町時代のものと思われる五輪塔や宝塔の遺物があったことから海賊の拠点だったと思われている。また、開拓は慶長11年(1606)に伊予河野氏の家臣だった石崎勘左衛門によるものだと伝わる。
泊清寺
本浦にある泊清寺(はくせいじ)は古くからあった禅寺を寛文3年(1663)に浄土宗の円隆上人が再興したもので、寺としての役割だけではなく萩藩の船番所や参勤交代の時に九州の大名が宿泊する海本陣としても利用された。
番所や本陣としての利用で賑わいを見せる沖家室島だったが、なにより人口が増えていった理由は漁業の発展だった。一本釣り漁法が持ち込まれたことで鯛やハマチ等の高級魚が獲れる漁場に各地から漁師が集まるようになり、江戸期後半から人口は爆発的な増加を見せ、それに伴う商業の発達と共に明治20年頃には人口3,000人に達したという記録がある。この頃は「家室千軒」と呼ばれ、人口過密は漁業出稼ぎを生み、東シナ海方面への出漁だけではなく、ハワイへの漁業移民を多く輩出した。
泊清寺の横にある“ふか(鰐)地蔵堂”は海の守り神として信仰され、毎年お彼岸にはご開帳と祭りが催される。神の化身として海で遭難した娘を救ったフカ(鮫)の話が残されており、後に地蔵が安置され“ふか地蔵”と言われるようになった。
昭和51年(1976)に柳井市大畠と周防大島を結ぶ大島大橋が開通し、昭和58年には待望の沖家室大橋が開通した。これで本州から沖家室島まで陸伝いとなり離島の不安は解消されたが、残念ながらその後も人口減少は止まらず、一段と過疎化が進んだ。しかし、お盆になると子、孫、親類縁者があちらこちらから里帰りを果たし、“盆に沈む島”と言われるほどの賑わいを見せる。

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