東京都の島南鳥島
南鳥島
南鳥島図
忠魂の碑…この地に骨を埋めた旧島民のために昭和17年に建立されたもの。
者長の句碑…「吾が土地とおもえば労旅苦にもせず」と彫られている。
戦没日本人の碑…昭和28年、遺骨収集の際建立された。
愛犬の碑…昭和59年、気象観測所の職員によって建てられた愛犬マイクの碑。
南鳥島の碑…珊瑚に「南鳥島MARCUS」と刻まれている。
日本最東端の碑…かつては「日本最南東端の碑」と彫られていたが、最東端に変更されている。
南鳥島(みなみとりしま)[洋名:マーカス島]
日本最東端の島
住所/東京都小笠原村南鳥島
面積/1.51km2周囲/5.56km標高/9m
人口/気象庁職員、海上自衛隊員、9人(R2)・71人(H27)・12人(H22)[国勢調査]
(2009年までは海上保安庁職員の常駐があり約40人)
アクセス/【南鳥島航空基地
入間基地、厚木基地、羽田航空基地などから航空自衛隊、海上自衛隊の飛行機が定期的に訪れる。
(※一般人は島には立ち入れない。客船がハワイ航路の途中で南鳥島付近を航行することがある。)
概要
東京から南東に1,950km、小笠原父島より東南東へ1,100km。北緯24度16分・東経153度59分。南鳥島は日本最東端であり、日本がEEZを主張するための重要な島。
隆起珊瑚礁によってできた。標高が低く平坦。南東端にある最高点は9mしかなく、大海に浮かぶ三角形の板といった感じ。白く波立つ島の周囲は水深1.5mほどの珊瑚礁が取り囲み、その先は1,000mの深海へと落ち込んでいる。
最初の発見は、1543年に火山(硫黄)列島を発見したスペイン船サン・ホアン号がこの島の存在を確認したという説がある。海外の地図にMarcus Island(マーカス島)と記されているのは、1864年にモーニングスターという船で訪れたアメリカ人宣教師が名付けたといわれている。
アメリカから返還される100年前の1868年、この島を訪れたデヴィッド・ホードレイ号のキルトン船長は「樹木と藪で覆われた低い砂浜の島である」と表現している。眩しく光る白い砂浜には戦争で築かれたトーチカや戦車の残骸が残され、モンパノキやココヤシの林のなかで外部より持ち込まれたアフリカマイマイが繁殖している。
南鳥島の歴史
19世紀も後半になるとアメリカやフランス船の上陸で次第にその存在が知られ、日本人の上陸者も現れるようになる。
1879年(明治12年)…静岡県出身の斎藤清左衛門が上陸(真偽は不明)。
1883年…信崎常太郎が英国船「エター号」で上陸。
1896年…水谷新六が探検途上でこの島に辿り着く。グアノ(鳥糞[リン鉱石])等の資源を確認、すぐに小笠原から労働者23人を移住させ開拓を始める。
1898年…「南鳥島」と命名され、日本領土として東京府小笠原支庁へ編入。そして、水谷は南鳥島の借地権を得、アホウドリの羽毛やグアノの採取、カツオ漁などの事業を始める。
1900年…事業権が一年間という期限付きで上滝七五郎に移される。
1902年…5月、再び水谷新六が事業に携わることとなり、小笠原から49名を移住させ、水谷村を作る。7月にはアメリカ船「ローズヒル号」が来島、上陸して調査をして帰国。
1903年…事業が「南鳥島合資会社」に移される。
1922年(大正11年)…事業が「全国肥料株式会社」に移される。
1933年(昭和8年)…アホウドリの乱獲でグアノが枯渇し事業は衰退、無人島になる。
1935年…旧海軍の施設が建設され、気象観測などが始められる。
1936年…飛行場や港などの施設が完成。
1940年…太平洋戦争突入。1942年頃から空襲を受け始める。
1945年…敗戦によりアメリカ軍占領。
1947年…台風被害によりアメリカ軍撤退。再び無人島になる。
1951年…アメリカの委託により日本の気象台職員が気象観測開始。
1952年…サンフランシスコ条約で正式にアメリカの統治下になる。
1963年…ロランC局(船舶無線局)完成。アメリカの沿岸警備隊が任務に就く。
1968年…小笠原諸島の島々と共に日本に返還。
1969年…海上自衛隊の施設完成。
1993年(平成5年)…ロランC局が米沿岸警備隊から海上保安庁に移管される。
2003年…気象庁の施設完成。
2009年…GPSの普及によりロランC局廃止。海上保安庁職員撤退。
2012…南鳥島周辺の排他的経済水域(EEZ)内の海底にレアアース(希土類)を大量に含む大鉱床があることを東京大の研究チームが発表。

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